DUBLIN DEATH PATROL
(ダブリン・デス・パトロール)
Member
チャック・ビリー -Vocals (Testament)スティーヴ・ゼトロ・サウザ - Vocals
(Legacy
F-Bomb
Exodus)
ウィリー・ラング - Bass (Laaz Rockit)
アンディ・ビリー - Guitars
(Sacred Dog
Rampage
Guilt) *チャック・ビリーの弟
スティーヴ・ロベロ - Guitars (Out of Control)
グレッグ・ブスタマンテ - Guitars (Rampage)
ジョン・ハー
DUBLIN DEATH PATROL Biography
DDPはTESTAMENTのチャック・ビリーがカルフォルニアはダブリンに住む親しい友人達と結成したバンドである。そのメンバーとは、ウィリー・ラング(Rampage, Laaz Rockit)、スティーヴ・ゼトロ・ソウザ(ex-TESTAMENT、EXODUS)、チャックとスティーヴの兄弟、そしてダブリンの気の知れた連中たちであった。
更に起源を辿ると、約1980年にあったRAMPAGEというバンドがこのバンドの鍵を握っていると言える。ダブリンに住むキッズだったチャック・ビリー、兄弟のアンディ・ビリー、そしてグレッグ・ブスタマンテ、アーニー・ボーエム、ウィリー・ラングの5人。当時18歳前後だった彼等は、5歳の時からの幼馴染だったという
この頃からロックやメタルにどっぷりと浸かって行ったバンドは髪の毛を伸ばしたり、ライヴに行ったりと感受性を高め、その流れでRAMPAGEが自然と結成されていく。ウィリー・ラングは「俺達は自分達だけで名前を広めようとした。そして自分達が予想もしていなかった速さでそれが実現された」と語っている。
その後、ウィリーはDIAMONDというバンドに加入するためRAMPAGEを脱退。その頃バンドのローディーをやっていたスティーヴ・ゼトロ・ソウザ。彼はフィル・ダメル(ex-VIOLENCE, MACHINE HEAD)と親友であり、スティーヴの兄弟はトロイ・ルッケッタ(TESLA)の友人でも会った。全てのバンドを知り尽くしていたスティーヴはがこのメタル・レジェンドに参加するには時間はかからなかった。こうやってDUBLIN DEATH PATROLの母体が築かれたのであった。
2005年の夏、Laaz RockitはオランダのDynamo Open Airでリユニオン・ライヴのオファーを受ける。ウィリーはTESTAMENTも同じステージに立つと聞いて、今まで眠っていた楽器を引っ張り出し活動を再開させることを決意。そこで、若いキッズが"オールド・スクール・メタル"を強く欲していることに感銘を受ける。「チャックと話し合ったよ。20年前に書いて埃を被っているキラー・チューンを、集まって一緒にプレイしないかって?」とウィリーは語る。新生DUBLIN DEATH PATROLが生まれた瞬間だった。
ウィリーはこうはっきりと語る。「このプロジェクトでは、出会った頃から影響を受けたものを完全に反映させた。カヴァー曲も当時あこがれて真似してた曲ばかりだよ。オリジナル曲も俺達の記憶にずっと残ってたものだし、誇るべき兄弟ヴィンセント・ウォノがいなければここまでの完成度はなかっただろう」と。チャック・ビリーも続ける。「もし最強にヘヴィなアルバムを作りたければ、出来たかもしれない。だけど、MACHINE HEAD的なアルバムを作ることは、俺達のルーツを表現していることにはならないんだ。」
ウィリーは裏話をこう話す。「この作品にはダブリンで生まれ育った奴しかプレイできないことにしたんだ。このアルバムに参加したかった名前を聞くと驚くと思うよ。だけど、入れることは出来なかった。そいつはダブリン育ちじゃないからね。ごめんよ、ラーズ!」 そうあのラーズ・ウルリッヒもこのDUBLIN DEATH PATROLに参加したかったのだ。
正にベイエリアはダブリンの小さなコミュニティから出てきた偉大なミュージシャンによって出来た夢のグループ、それがDUBLIN DEATH PATROLなのだ。20年前の曲とは思えない荒々しさと、エネルギーが漲る。時を経て、それぞれがメタルの歴史に名を刻む存在となった今だからこそ成しえたこの作品には、地元の固い絆が刻み込まれている!
更に起源を辿ると、約1980年にあったRAMPAGEというバンドがこのバンドの鍵を握っていると言える。ダブリンに住むキッズだったチャック・ビリー、兄弟のアンディ・ビリー、そしてグレッグ・ブスタマンテ、アーニー・ボーエム、ウィリー・ラングの5人。当時18歳前後だった彼等は、5歳の時からの幼馴染だったという
この頃からロックやメタルにどっぷりと浸かって行ったバンドは髪の毛を伸ばしたり、ライヴに行ったりと感受性を高め、その流れでRAMPAGEが自然と結成されていく。ウィリー・ラングは「俺達は自分達だけで名前を広めようとした。そして自分達が予想もしていなかった速さでそれが実現された」と語っている。
その後、ウィリーはDIAMONDというバンドに加入するためRAMPAGEを脱退。その頃バンドのローディーをやっていたスティーヴ・ゼトロ・ソウザ。彼はフィル・ダメル(ex-VIOLENCE, MACHINE HEAD)と親友であり、スティーヴの兄弟はトロイ・ルッケッタ(TESLA)の友人でも会った。全てのバンドを知り尽くしていたスティーヴはがこのメタル・レジェンドに参加するには時間はかからなかった。こうやってDUBLIN DEATH PATROLの母体が築かれたのであった。
2005年の夏、Laaz RockitはオランダのDynamo Open Airでリユニオン・ライヴのオファーを受ける。ウィリーはTESTAMENTも同じステージに立つと聞いて、今まで眠っていた楽器を引っ張り出し活動を再開させることを決意。そこで、若いキッズが"オールド・スクール・メタル"を強く欲していることに感銘を受ける。「チャックと話し合ったよ。20年前に書いて埃を被っているキラー・チューンを、集まって一緒にプレイしないかって?」とウィリーは語る。新生DUBLIN DEATH PATROLが生まれた瞬間だった。
ウィリーはこうはっきりと語る。「このプロジェクトでは、出会った頃から影響を受けたものを完全に反映させた。カヴァー曲も当時あこがれて真似してた曲ばかりだよ。オリジナル曲も俺達の記憶にずっと残ってたものだし、誇るべき兄弟ヴィンセント・ウォノがいなければここまでの完成度はなかっただろう」と。チャック・ビリーも続ける。「もし最強にヘヴィなアルバムを作りたければ、出来たかもしれない。だけど、MACHINE HEAD的なアルバムを作ることは、俺達のルーツを表現していることにはならないんだ。」
ウィリーは裏話をこう話す。「この作品にはダブリンで生まれ育った奴しかプレイできないことにしたんだ。このアルバムに参加したかった名前を聞くと驚くと思うよ。だけど、入れることは出来なかった。そいつはダブリン育ちじゃないからね。ごめんよ、ラーズ!」 そうあのラーズ・ウルリッヒもこのDUBLIN DEATH PATROLに参加したかったのだ。
正にベイエリアはダブリンの小さなコミュニティから出てきた偉大なミュージシャンによって出来た夢のグループ、それがDUBLIN DEATH PATROLなのだ。20年前の曲とは思えない荒々しさと、エネルギーが漲る。時を経て、それぞれがメタルの歴史に名を刻む存在となった今だからこそ成しえたこの作品には、地元の固い絆が刻み込まれている!